11月1日 全聖徒主日 「命」
毎年11月の第1週は召天者を覚える礼拝の日です。亡くなられた方を思う日は、寂しさや悲しさがあります。しかし、教会はそこでは終わりません。「天にあげられる」とは神様の御許に行くことであり、最も良い場所に行くのです。そのことが本当かどうかはわかりません。私もまだ行ったことがないので。死んだ後で、
毎年11月の第1週は召天者を覚える礼拝の日です。亡くなられた方を思う日は、寂しさや悲しさがあります。しかし、教会はそこでは終わりません。「天にあげられる」とは神様の御許に行くことであり、最も良い場所に行くのです。そのことが本当かどうかはわかりません。私もまだ行ったことがないので。死んだ後で、
ルターはよく改革者と呼ばれますが、新しい何かを始めようとしたわけではありません。彼が目指したものは、原点回帰です。キリスト教が作り上げた様々な構造が、かえって最初期にあった喜びを覆い隠してしまっているとし、彼は立ち返ろうと訴えかけたのです。それは積み上げたものの破壊として映り、大きな変更が必要な
聖書の時代、イエスキリストを受け入れた人々は、弱い立場におかれていた人々が多かったのです。当時考えられていた神への正しい向き合い方が、生活や仕事の都合でできないために周囲から弱い存在として扱われていたのです。イエス様はそのような人々をこそ先に召しだされたのです。それは、何も弱い立場に
人生において、苦労することは成長につながると考えられることがあります。そのことを否定するつもりはありませんが、信仰において苦労する必要はないことが語られています。むしろ苦労をした際に大事なことは、人の苦労を求めないことだというのです。私たちは自分が苦労すると、誰かも同じように苦労して
二人または三人が神の名によって集まるところに、神がおられる。そう宣言されました。すなわち、教会とは神のおられる場所であり、神の愛に満ちた場所であるとも言えるでしょう。しかし、時に勘違いされますが、共におられるだけ、教会そのものが特別な力を持つという事ではありません。神が共におられる。ただその
※本日は、引退教職の木下理牧師が礼拝を担当してくださいます。命とは、常にそこにあって当然のものであり、命を考えることすら日常ではあまりないかもしれません。しかし、イエス様は常に命を問うのです。あなたの命は…、その命は…と。そして、その問いに対してイエス様は最後に答えるのです。「永遠の命を与え
神を信じるということは誤解されることがあります。「神」ではなく、「神の働き」を信じていくようになってしまうのです。救ってくれる、助けてくれる、神の力で超常現象を起こす。それらの神の働きは、大事なことではあっても、私たちが「信じる」ことの中身ではありません。私たちが信じることは、ただただ「神」
天という言葉は、場所を示す言葉として使われます。きっと「天」と言われたら、私たちは空を見上げるでしょう。しかし、天というのは場所だけを指すのではなく、神の御許を指す言葉なのです。それは神とともにある場所であり、私たちが信仰によって神の臨在を受け取る時、そこが神の御許であり、天であるのです。